募金に関して
2011年04月16日 16:21
作者:ポトフ
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ふたりの木

早期の復旧、復興を願っています。 笑顔になれる日々が一日でも早く訪れますように。


 いつからだろうか。
 健一は日課である水遣りをしながら、ふと思った。
 家の裏手にある小高い丘に一本の木が植わっている。木と呼べるほどには成長しておらず、まだまだか細く頼りない幹が土から空へと伸びている。それでも、自分の身長より少し小さいぐらい。中学一年生の健一が百三十二センチなので、百二十センチといったところか。

 自分の庭の木でもないのに、雨の日以外は毎日水を遣りに来ている。小学校低学年の頃からだろうか。それとも保育園に通っていたときだっただろうか。とにかく小さいときだったというのは覚えている。
 いつから遣り始めたのかも曖昧な健一なので、なぜ水を遣っているのかなんてもっと曖昧である。気づいたときにはもう日課になっていたのだ。学校から帰ってきて、宿題や明日の支度を終わらせてから、じょうろに水を入れて家を出る。歩いて一分で丘に着く。じょうろを傾けて水を木に与える。

 サーッと霧のように細かな水が降り注ぐ。健一はこの音が好きだった。
 頭の中を空っぽにして、水の音だけに耳を傾ける。ときどき角度を変えたりして、音の出方を変化させる。

「あ……」

 声が聞こえた。健一が肩越しに振り返るとそこに加奈が立っていた。水瀬加奈。健一の小学校からの幼なじみだ。健一の手元を見て、じょうろにほとんど水が残っていないのを確認すると、少し残念そうに呟いた。

「今日は、もうお水やっちゃったんだね」
「ああ、うん。ごめん……」
「別に謝らなくていいんだけどさ」
「ああ、うん。ごめん……」
「もう、健一くん謝ってばっか」
「来るなら電話とかしてくれれば待ってたよ」
「こんなことでいちいち電話したら迷惑でしょ?」
「まあ、それは、そうか」

 初めて加奈と出会ったのはここだった。今と同じように後ろから声をかけられて、振り返ると立っていた。かわいらしく首をかしげて、
「なにしてるの?」
 と小学生だった加奈は健一に聞いてきたのだ。それから加奈はときどき丘にやってきては健一と一緒に水遣りをするようになった。来るときはまちまちで、一週間ずっと来る日もあれば、全く来ない週もあった。健一は加奈の気まぐれだと思っている。

「だいぶ大きくなったね」
 加奈が枝についた葉っぱを指先でいじりながら言った。
「毎日見てるとそうは感じないけどね」
「でも始め植わってたときはこんぐらいちっちゃかったんでしょ?」
 指で小さな輪っかを作る。きっと種のつもりなのだろう。
「どうだったかな。種からは植えてないからわかんないけど、小さかったのは確かだよ」
 自分の手のひらぐらいの大きさだった気がする。しゃがんで水をやっていたときのことを覚えている。

「まだまだ大きくなるかな?」
「さあ?」
「さあって……。毎日お水やってるのに素っ気ないのね」
「だってわかんないから」
「健一くんなんてすぐに抜かされちゃうよ」
「加奈なんてとっくに抜かされてるじゃないか」
「私は別にいいの」
「どうして?」
「女の子だから」
「よくわかんないけど……」
「健一くんも大きくならないとね」
「僕は……」

 健一は言葉に詰まった。身長は男子の平均的なそれよりも低い。先頭を譲った経験がこれまでに一度もない。果たして大きくなれるのだろうか。仮に大きくなれたとしたら、今見ているこの景色がもっと違うものに見えることだろう。高さ百八十センチから見る光景は憧れだ。

「きっとなるよ。これから成長期だから」
「いっぱい食べていっぱい運動しなきゃね」
「わかってるよ」
 加奈のおせっかいに少しイラつく。せめて加奈には負けないようになろうと健一は心に決めた。
「そろそろ暗くなるから帰ろっか」
「そうだね」
 じょうろの中にほんの少し残っていた水を木にかけ、健一たちは、丘を後にした。

● ● ●

「ちょっと。昨日、健一くんが遣ったから、今日は私」

 加奈に手を出され、健一は持っていたじょうろを奪われてしまった。上機嫌に鼻歌を歌いながら、加奈はじょうろで木に水を遣る。
「ふふふ〜ん♪」
 後ろで結ったポニーテールが揺れる。健一はその姿をぼーっと眺めている。
 高校三年生になった健一と加奈は、世間で言われる恋人同士になっていた。当事者の健一にとっては、恋人同士になったからといって、加奈との関係が今までと変わったわけではないので、その言葉に疑問を覚えていた。告白したのは加奈からである。健一は特に考えもせずに即断で了承した。加奈のことはずっと好きだったからだ。断るわけがない。

「ねえねえ、やっぱりこれだけ大きいと水もいっぱい遣った方がいいのかな?」
 肩越しに振り向いた加奈が、健一の顔を見ながら聞く。
「そりゃ、そうなんじゃないかな。成長した分だけ、栄養が必要になるんだし」
 憧れの百八十センチはいかなかった。それでも、平均身長より少し低めの百六十五センチ。百五十八センチの加奈には勝ったので、よしとしている。
 景色が変わったかと問われれば、健一は首を捻る。今見ている光景は中学一年と全く変わりがない。憧れていた世界はどこにもない。唯一変わったことといえば、加奈が毎日、水遣りに来るようになったことだけだ。
 相変わらず日課は続いている。木は順調に成長して、ついに健一の背を越してしまった。

「やっぱり一回だけじゃダメだね。もう一回水汲んでくるね」
「あ、俺が行こうか?」
「いいよいいよ。今日は私の当番だし。健一くんはここで待ってて」
「当番って……」

 健一は諦めたようにため息をついて、水を取りに行く加奈の背中を見送った。丘に一人残される。冷たい風が吹いた。もう三月とはいえ、夕暮れ時の冷え込みは厳しく、とても寒い。健一はズボンのポケットに手を入れて、木を見上げた。
「どこまで大きくなるんかなーこれ」

 もう何年も水遣りを続けているというのに、未だにこの木の名前を知らない。最終的にどれぐらいの長さでどれぐらいの太さになるのかもわからない。これから先ずっとこの日課を続けていけば、いずれわかるだろう。
 健一と加奈は地元の同じ大学に進学を決めた。電車で通える範囲なので、自宅から通う。日課もこれまで通り続けられる。何一つ不自由ない。
 前は憧れを求めて変化を欲していたが、今では変わらない状況が満足で、十分すぎるくらいだ。加奈と過ごす日々が楽しいと思っている。これからも続いていってほしい。
 自分よりも高く伸びる木を見て、健一は自分の将来と重ねようとしたが、靄がかかったように真っ白で何もわからなかった。

「たっだいまー」
 白い吐息を出しながら、加奈が水を汲んで帰ってきた。
「おう。おかえり」
「入れるときに水が手にかかっちゃって。冷たかったよー!」
 袖下から加奈が真っ赤になった手を見せてくる。いかにも寒そうだ。健一はじょうろを地面に置かせ、加奈の手を両手で包みこんだ。
「わあ……健一くんあったかいね」
「加奈のは冷たいな」
 両手の中に氷でも入れているかのように加奈の手は冷たかった。こちらまで浸透してきそうだ。  手を擦って、温度を上げてやる。
「健一くん、やさしくなったね」
「うん? そうか?」

 かっこつけのために言葉を乱雑に使っているつもりで、昔よりぶっきらぼうになったと思っていたが、加奈にはそうは見えないらしい。不思議なことだ。  えへへ、と恥ずかしそうに加奈は笑った。その頬にほんのりと朱色が差す。健一は素直にかわいいと思った。
「ありがと。もう大丈夫だよ」
 健一の手から離れた加奈は、じょうろを持って、木に水を遣り始めた。  小さな穴のたくさん開いた蓮口から水がシャワー状に降り注ぐ。
「たくさん飲んでおおきくなーれ♪」
 謎の呪文を唱えながら、木の根に向かって水を染み込ませていく。健一は加奈の隣でただ突っ立って見ているだけだ。けれど、健一は立ってるだけでもよかった。水の音と加奈、好きなものが二つに増えていた。

● ● ●

 お腹の子に障るからやめておいた方がいい、という健一の忠告を加奈は拒んだ。
「大丈夫よ」
 そう言ってにっこりとほほ笑むものだから、健一は何も言えなくなってしまった。
「それに軽い運動は必要だもの。何もしない方が体に毒よ」
 大学を卒業してすぐに健一と加奈は結婚した。それから一年経って、赤ちゃんができた。妊娠九カ月の今、加奈のお腹は大きく膨らみ、歩く姿はたどたどしい。
 それでも加奈は日課の水遣りを止めようとしなかった。健一がやっておくと言っても、必ず二人で行くことを加奈は主張した。昔から頑固なところがあったので、何を言っても無駄だとわかった健一は説得を早々に諦めて、なるべく負担のかからないよう配慮することにした。

「ゆっくり、ゆっくり……」
 加奈の手を引きながら一歩一歩丁寧に歩く。
「そんなに慎重にならなくても大丈夫だってば」
「いや、ダメだ。いくら頑固なキミでも、これだけは譲ってやれない」
「どっちが頑固なんだか」
 くすくすとおかしそうに口元に手を当てて笑う。
「つらくなったらいつでも言って」
「だから大丈夫だってば」
 時間をかけて丘に登る。緑の葉っぱに彩られた一本の木が立っている。

「改めて見ると立派になったな」
 自分の身長より小さかった頃の面影はどこにもない。太陽の光を受けて、色鮮やかに輝いている。風で枝が揺れるたび、木漏れ日が健一と加奈を照らした。目を眇めながら、葉の間から木のてっぺんを見上げる。

「ずっとずっと水を遣ってきたから」
「よくもまあここまで続けたなーと思うよ」
「何言ってるの。これからもずっと続けていくんでしょ?」
「そりゃあね。ここまで来たら今更止めれないよ」
 持ってきたじょうろの水を遣ろうとすると、加奈が手を差し出してきた。
「私にやらせて」
 健一はじょうろの取っ手を加奈の指にかけてやった。
「重いから気をつけて」
「あ……」
「ん?
 どうした?」
「一緒にやろう」
「一緒に?」
「そう、一緒に」

 加奈は健一の指に自分の指を絡ませた。二人でじょうろを持つ。
「……手つなぐの、久しぶりだね」
「あ、ああ。そうだな」
 急にそんなことを言われたものだから、健一は恥ずかしくなって顔が熱くなった。
 その火照りを鎮めるかのように、健一は自らじょうろを傾けて、木の根にかける。
 サーッ、と水が降り注ぐ音が聞こえる。キラキラと光が反射してまるで星のようだった。

「あ、虹出た」
「え?
 どこどこ?」
「ほらそこ」
 加奈が指をさして教えてくれる。
「あ、ほんとだ」
 うっすらと小さな虹が水の下にできている。
「赤ちゃんが生まれたらさ」
「ん?」
「三人で水遣りできるね」
「ほとんど子供主体でやらせるけどね」
「えー、なによそれ」
「こんだけ長く水遣ってると情が移ってさ。この木は、俺たちのもう一つの家みたいなものだって思えて。後にもずっと守っていってもらいたいんだ」
「この子やってくれるかな?」
 加奈がお腹を見ながら言った。
「やってくれるさ。何せ俺の子だぞ?」
「私の子供でもあるね」
「きっと頑固者が生まれてくるぞ」
「人のこと言えないと思うけどなー」

 傍から見るとただの木だけど健一たちにとっては大切なものだった。自分たちと共に成長を歩んできた。これからずっと先、この木は生きていくだろう。健一たちの寿命の何倍も。健一は、この木の成長を自分でなくとも他の誰かが見ていてくれたらいい、と思っていた。

「楽しみだね」
 加奈が笑いかけてくる。
「そうだね、楽しみだね」
 健一も笑う。
 じょうろの水が空になった。ふわっと土のにおいが鼻を通ってくる。水を遣った部分が他の土よりも濃い色になっていた。
「帰ろうか」
 健一は加奈の手を取った。
「そうね」
 加奈が健一の手をぎゅっと強く握り返す。来たときと同じように、慎重に慎重に足を進めて、家に帰る。


 三人で水を遣りに来ることは一度も叶わなかった。

 生まれてきた赤ちゃんと引き換えに、加奈は息を引き取った。加奈の死に顔は穏やかで、温もりがあった。ただ静かに眠っているだけのように見えた。健一は加奈の死が信じられず、何度も何度も、呼びかけた。いつまで寝てるつもりだい、起きて見てごらん。俺たちの赤ちゃんが生まれたんだ。

 健一はひたすらに加奈にしゃべりかけたが、加奈は何の反応も見せなかった。健一はついにしゃべりかけるのをやめた。口を閉ざした途端、目から涙がぼろぼろ零れ落ちた。健一はそれを拭うことさえできなかった。体中が熱く、肩は震え、頭では何も考えることができず、顔をぐしゃぐしゃにして泣き続けた。
 健一は仕事をやめるわけにいかず、赤ちゃんを両親に預けた。昼は両親に面倒を見てもらい、夜、仕事が終わってから迎えに行く。そんなことを繰り返した。

 日課だった木の水遣りはついに途絶えた。
 あの丘に健一は行きたくなかったからだ。加奈と一番多く過ごした場所。ふたりの場所。行けば、加奈の顔が蘇り、悲しみの渦に呑まれてしまう。変なことを考えないためにも、健一はなるべく丘の木のことから離れたかった。

 再び木に水を遣りに行くのに五年かかった。
 仕事が早く終わったので、健一は息子を迎えに行く前に丘に立ち寄った。
 そこには、あの木が、加奈と二人で水を遣り続けた木があった。水をやらなくても自然の雨で木は枯れることなく成長していた。

「久しぶりだな」
 木の幹に手を置いて、健一はしゃべりかける。
「日課の更新記録が途絶えちゃったなあ」

 久々に見た木は一回りも二周回りも大きくなっていて、始めて気づいた変化に健一は驚いた。今まで毎日のように木を見ていたため、その成長に疎かったが、五年も年月が空くと、その変化は著しく、健一に時間の流れを感じさせた。

『三人で水遣りできるね』
 五年前の加奈の言葉が蘇った。
「水遣りだけじゃないよ。ピクニックだって、木登りだって、できたんだ。鳥の巣箱を作ったりとか、木陰で絵本を読んだりとか、いっぱいいっぱいできることがあったんだ」

 健一は目頭が熱くなるのを感じた。今度はちゃんと手で拭うことができた。
「時間経っちゃったけど、また日課始めるよ。お前にとっては意味のない水だろうけど、俺たちにとっては意味があるんだ」
 健一はじょうろを傾けて水を遣る。
 懐かしいにおいがした。

 ● ● ●

 あの日、夕暮れのとき以来、健一は健太を連れて丘に行くようになった。健太というのは加奈と二人で決めた息子の名前である。健やかにたくましく育ってほしいということで健太と名づけた。
 健太は水遣りが楽しいのか、じょうろいっぱいに水を溜めて幹の周りをちょこちょこ動きながら水を遣っていた。

「楽しいか?」
 聞かれた健太は顔を上げて大きく頷いた。
「うん! たのしい!」
 再び視線を落として、水を遣り始める。加奈がいないことを嘆いても仕方がない。健一は、加奈の分まで健太と木を守っていこうと思った。
 だが、健一の思いは、いとも簡単に崩れてしまった。

 夏にやってきた暴風雨が健一の住む町に甚大な影響を及ぼしたのだ。そのちょうど最中、家にいた健一は裏手から風と豪雨の音に混じって、木の折れる音を聞いた。雷が落ちたかのような大音量、地面が揺れた。震える健太抱き寄せ、腕で守った。健一はどうか倒れていないでくれと心の中で願った。

 暴風雨が収まり、健一は心配になっていた木の様子を見に行った。暴風雨の影響を受けた丘の土はぐちゃぐちゃで、どこからか飛んできたゴミが散乱している。そんな中、健一が守り続けてきた木は真っ二つに折れて横たわっていた。
 先日の音はやはり、この木が折れた音だった。

 健一はその無惨な姿を見るなり、足の力が抜け、膝をついた。幹の下の方が折れ、歪な年輪が?き出しになっている。折れた枝があちこちに散らばり、泥の中に身を埋めていた。

 何十年もかけて水をやり続けてきた。加奈と出会うきっかけになった大切な大切な木。大事なものを壊してしまったときのように、もう取り返しのつかないという虚脱感に襲われた。決して元通りにはならない。一度壊れてしまったものは直らない。
 たったの一日で、あっという間になくなってしまった。かけた時間も労力をもあざ笑うかのように一瞬で消えてしまった。

 もう何も残っていない。加奈も失って、思い出の場所も失った。
 健一は目を覆いたくなった。現実を見たくなかった。加奈のときもそうだ。決して受け入れたくなかった。まだどこかで健一は夢を見ていた。これは全て悪い夢で目が覚めてないだけなんだと思いたかった。もう一つ別の世界があって、そこでは加奈と健太の三人で楽しく過ごしている。日課の水遣りだって欠かさずにやる。休みの日には加奈の作った弁当を持って、木の下で三人寄り添って食べるのだ。うまいうまいと言いながら、次々におかずを放り込んで、喉に詰まらせて苦しんでいるのを加奈に笑われるのだ。それでいて、心配してくれて背中をさすったり、お茶を飲ませてくれたりする。加奈はそういう人だ。

 耳に懐かしい声が聞こえる。健一の瞳に光が一瞬宿る。顔を上げて、きょろきょろと見えない何かを探したが、あるのは泥だらけの丘と折れた木だ。
 ザッザッ、と土を踏む音を健一は聞いた。誰かが健一に向かって歩いてくる。健一は振り返りもせずにただ呆然と折れた幹を見続けた。

「おとーさん」
 健太が健一の服の裾を軽く引っ張った。
「……」
「きぃ、おれちゃったね……」
「……」
「またくっつけたらなおるよね」
「……」
「こないだおもちゃなおしてくれたときみたいに、ね! くっつけてなおしてよ」
「……無理なんだよ」
 ようやく搾り出した声はひどく掠れていた。
「え……」
「もう直らないんだ。くっつけても直らないんだよ」
 健太にはまだわからないのだろう。首を傾げて、どうして? と目で聞いてくる。

「もうこの木はね、もう大きくならないんだよ」
「おみずをあげたらいいの? ほら、ぼくもってきたんだよ」
 健太が両手に抱えたじょうろを持ち上げてみせた。じょうろにはちゃんと水が入っている。健一が外に出るのを見て水遣りに行ったのだと思ったのだろう。
「水遣りはもうおしまい。もう、やらなくてよくなったんだ」
「そうなの?」
「そう。だから、もういいんだ」
 声に力がなくなる。もういい。その言葉を口にするたび、健一は胸が締め付けられた。心が冷え、何もかもがどうでもよくなっていく。

「じゃあさ!」
「ん?」
「あたらしいの、うえよう!」
 健太の言っていることが健一には一瞬、理解できなかった。
「新しいの?」
「うん! おとーさんとおかーさんがうえたやつだったから、こんどはぼくとおとーさんであたらしくうえよう!」
 正確には加奈と一緒には植えていない。すでに植わってた小さな苗木に水を遣っていただけだ。健太にとっては健一と加奈が植えたものだと思っているのだ。

「またそだてよう!」
 元気よく健太が言う。その瞳は何も恐れていない。あんな暴風が来たのに、今この状況を見ているはずなのに、健太の目には強い光が宿っている。対する健一の目には光が戻らないままだ。
「また折れちゃうよ。これから台風がまだまだ来る。そしたら、またなくなるんだよ」
同じことの繰り返し。たとえ、新しく植えたとしても、加奈との思い出の場所は蘇らない。それが健一にはわかっているから、否定的な言葉しか出ない。
「そしたらまたあたらしいのうえよう!」
 しかし、健太は全く諦めていない。
「なんどもうえて、そだてようよ!」

 ああ、と健一はそこで気づいた。健太の強い目の光は見た覚えがあった。
 小学校から知っている。かわいい顔してそのくせ頑固で、自分が決めたことは絶対に譲らない。健一が何を言おうとも全くお構いなしに実行しようとする。どうしてもダメだと言うとむすっと、頬を膨らませてふてくされる。上目遣いで健一がうんと言うまで睨んでくる。そんな女子を知っている。
 やっぱり、健太は加奈の子供なんだと改めて健一は思った。
 何を言っても無駄なのだろう。だったら好きにさせるしかない。健一にできることはその補助だ。

「ねえ! おとーさん!」
 裾を強く引っ張ってくる。健一はその手を押し留めてやる。
「わかった。わかったよ。健太の言うとおりにしよう」
「やった!」
 加奈との思い出の場所は決して蘇らない。それでも、新しい思い出は作ることができる。加奈が残してくれた健太はその名に恥じないくらい立派に育っている。子供に教えられるなんてと、健一は反省した。そして、思う。
 加奈、この子は君と全く同じ頑固者だったよ。また守るものが増えそうだ。ありがとう。

 ● ● ●

 健一と健太は折れた幹の近くに小さな苗木を植えた。