募金に関して
2011年04月27日 00:18
作者:阿部暁子
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金色の時間

私は岩手県で生まれ、今も岩手に暮らしています。あの3月11日、世界がばらばらになるような、そして気が遠くなるように長い揺れを体験しました。それでも内陸部にいた私はさほどの被害を受けませんでしたが、友人の弟は今も行方が分からず、岩手の沿岸で教師をしている別の友人は津波に呑みこまれた町で懸命に働いています。 あの地震の前のありふれた、穏やかな生活をとり戻すまでにはきっと何年もかかるでしょう。そして土地や建物が戻っても、恐怖とかなしみは消えません。それでももっとも苦しいはずの人たちこそが、懸命に前を向いて進もうとしています。 どうか懸命にあゆもうとしている人たちに力を貸してください。できる限りでかまいません。ほんの少しでもかまいません。どうか、手を貸してください。

「東北大会に行きたかったです……っ」
 と悔し涙をぬぐう私に、
「落ちたもんはしょうがないだろ。それよりお前、もうちょいしたらバスが来るからロビー集合ってみんなに声かけとけ」
 と金色のトロフィーをつきつけて命ずる先輩は、これが最後なのにセンチメンタルをくしゃっとまるめてゴミ箱に捨てるクールさで、それは見事にいつもの私の先輩だった。
 文化ホールのガラスばりのロビーは、表彰式を終えて県内各地へ帰っていく高校生でいっぱいだ。赤ちゃんと母親のブロンズ像の前に集合したうちの部の総勢三十名は、自然とパートごとに分かれている。泣き顔やしんみり顔をしているのは一年生と二年生。穏やかに後輩たちへ励ましの言葉をかけるのは、明日から受験勉強に専念する三年生。
「バスが来るまでまだ時間があるから、最後に部長からみんなにひと言どう?」
 と顧問のオサダ先生が提案するも、
「演奏のあとにやったじゃないスか。もうヤです」
 と先輩はすげなくつっぱね、黒革のトランペットケースとトロフィーを持ってすたすた玄関の外へ出ていってしまう。しめっぽいのと人ごみを嫌い、相手が教師といえどやりたくないことはやらない先輩は、純血B型家系の長男だ。
 先輩を追いかけてホールの屋外に出ると、先輩は白い石畳の広場に置かれたベンチに腰かけていた。広場では他校の生徒と顧問の先生が反省会をしていて、その様子をながめているようだ。私は人ひとり分の隙間をあけて、先輩の隣に座った。そろそろ夕飯が食べたい時刻だけれど、夏の晴れた空はまだ明るい。
「東北大会に行きたかったです」
 再度主張すると、楽器ケースを膝にのせた先輩はうんざりと横顔をしかめた。部員はみんな自分の楽器をトラックに積んで先に学校へ送っているが、先輩は長年お年玉をためて買ったという愛器を、他人に運ばせることをよしとしない。
「県大会金賞だぞ、上々だろ。今日の演奏は今までで一番よかった。それでこれだったんだから受け入れろよ」
「でも行きたかったんです」
「んじゃ来年行け。これから一年吐くほど練習しろ」
 先輩はちっともわかってない。今年じゃなきゃダメなのに。
「今日の演奏は一番よかったよ」
 くり返しながら先輩は、表彰式で授与されたトロフィーを私に持たせた。声が少しやわらかくなったのは、たぶん私がぐすっと鼻をすすったからだ。
「みんなお互いの音ちゃんと聴いてまとまってたし、先生も指揮トチんなかったし、お前も高い音きれいに出せてた。お前、うまくなったよ。去年は楽譜も読めなかったのにな」
 先輩は人のことばかり褒めるけれど、今日の先輩の演奏こそ素晴らしかった。とくに課題曲中盤のソロ、先輩のトランペットが最高難度のハイトーンを高らかに鳴らした時、隣で演奏しながら私は震えた。闇をつらぬく光線のような金色の音。
 中学までバレーひと筋で楽譜も読めなかった私が吹奏楽部に入ったのも、先輩のあの音を聴いたからだ。入学式から間もなくの頃、友達と運動部を見学してまわっていたら、桜並木の下で先輩がトランペットを吹いていた。『天空の城ラピュタ』という超有名なアニメ映画で、パズーという男の子が演奏する超有名な曲だ。あざやかな金色の音が体のなかを吹きぬけいったあの瞬間は、まだはっきりと覚えている。
「パズー!」と感極まって私が駆けよると、先輩は不審者を見たように眉をひそめて立ち去ったが、私はその日のうちに吹奏楽部の部室へ入部届を持っていった。希望の楽器はもう決まっていた。
「私なんてエースの先輩に比べたらベンチの補欠みたいなものですけど、ちょっとでもうまくなれたなら、それは先輩のおかげです」
「ふうん、殊勝だな」
「もうほんと情け容赦のないしごきっぷりで、この人の血の色ぜったい青か緑だって思ったりもしましたけど、あの『できなきゃ殺(や)られる!』って恐ろしさで、逆にがんばれたんだなって」
「お前ほんとに感謝してんのか」
『氷の部長』と部員に恐れられる先輩は、私の指導係になった当時まだ二年生だったけれど「楽譜が読めない? 論外だ。今から一時間で譜読みをマスターしろ」としょっぱなからスパルタ教育だった。楽器を持たせてもらってからも「ロングトーン30セット、半音階30セット、毎晩風呂上がりに腹筋100回。力むな、喉の奥を広げろ、おい何回言わせる? 何となく吹くな、音の高さをイメージしろ!」と初心者にも手加減なしだ。
 でも、山伏のホラ貝みたいな音しか出せない自分に私がへこんでいると、決まってあのパズーの曲が聞こえてきた。ぴんと澄んだ希望の音色。それに耳をすましていると「やるか!」と元気が復活して、私はロングトーンを再開する。するとパズーの曲はやんで「音がゆれてるぞ、腹で支えろ」と先輩の注意が飛んでくる。
「パズーのあれ、吹いてください」と元気な時に頼んでも、先輩は「お前はそんなことが言える身分か? 自分の練習をしろ、素人」と冷たかったけれど。毎日毎日ロングトーンと音階練習をくり返して、ふいにパーンと澄んだ音を出せた時、本当に嬉しくてぎゅうっとトランペットを抱きしめた日のことは、今でも忘れられない。
 と、そこで先輩がくすりと息をこぼし、それを取り消すように口を押さえた。
「なんですか、思い出し笑いですか」
「いや別に」
「なんなんですか。言っておきますけど私、答えてくれるまで聞きますよ。バスの中でも打ち上げでも何度だって聞きつづけますよ」
「しつこいな。お前がそういうやつだってことを思い出してただけだよ」
「……すいません、先輩の言い回し先進的すぎるんで、私にもわかるレベルでもう一度」
「俺は人に教えるのが苦手だし、こういう性格だからきついこともけっこう言ったけど、お前は一回も弱音吐かなかっただろ。自分で毎日朝練もやって、今じゃちょっと感心するくらい吹けるようになって、熱意と根性はすげーあったよなって」
 そして先輩は二度目の思い出し笑い。
「猛吹雪の日に、お前が雪まみれになって朝練に来た時は、さすがに俺も若干ひいたよ」
 でもそう言う先輩は、私よりも先に部室へ来ていた。先輩が麻疹にかかった時以外、私は朝練で一番乗りになったことはなかった。
『お前、どこの雪山で遭難してきたんだ?』
 あきれたように笑った先輩は、ぽんぽんと私の頭に積もった雪を払ってくれた。ストーブの前で震えながら『パズーのあれ、吹いてください』と私が小さな声で言うと、『自分の練習しろよ』と顔をしかめながら先輩は、でもパズーの曲を吹いてくれた。金色の音で。
「……なんで泣くかな」
 先輩のため息を聞きながら、私はぎゅっと金色のトロフィーを抱きしめる。
 勉強も大変なはずなのに、今日の県大会にむけて練習する先輩たち三年生は、音楽への情熱をすべて注ぎこむようだった。その姿に打たれて私たち二年生も、後輩の一年生もがんばってきた。そして今日の演奏は今までで一番の出来だった。いけるんじゃないかと思った。でも、届かなかった。
 東北大会の代表発表でうちの学校の名前が呼ばれず、ああ……とみんながつぶやいたあの時。ステージに整列していた各校の代表者が舞台そでへ戻っていくなか、先輩がひとりだけ足をとめた。客席の私たちをふり向いた先輩は、このトロフィーを小さく掲げてみせた。クールで容赦ない氷の部長なのに、よくやった、そんなふうにほほえむ顔はやさしかった。
「東北大会に行きたかったです……」
「またそれか。ほんとに諦め悪いな」
「東北で一番になって、全国も制覇して、アジアに行って」
「いや、アジアはねえよ」
「ずっとずっと、先輩の隣でトランペットを吹いていたかった――」
 あなたの金色の音が、山伏のホラ貝だった私を変えた。早起きもつらくなかった、部室に行けば私より百倍努力家のあなたに会えたから。あなたを追いかけて一年半はあっという間にすぎた。そしてあなたは行ってしまう。もう明日、部室にあなたは来ない。
「めそめそすんなよ。安心して引退できないじゃん、それじゃ」
 ため息まじりに立ち上がった先輩は、ベンチのうえに楽器ケースを開いた。マウスピースで唇をならしてから、今度はトランペットに息を吹きこんで楽器を温め、かるく音階を吹く。まるでいつもの演奏の前のように。
「先輩……?」
「お前はパズーのあれ、パズーのあれって言ってるけど、あれは『スラッグ渓谷の朝』って名前がちゃんとあるんだよ」
 そして先輩は力みのない立ち姿で愛器をかまえる。まぶしい夏の夕陽をはじいて、金色のトランペットが気高い生きもののように輝いた。
 空気の色を塗りかえるような鮮明な音に、広場で反省会をしていた高校生たちがふり返る。先輩の指遣いに合わせ、トランペットはずっと昔から知っていたような気がするあの旋律を歌う。私が落ちこんでいるといつもどこからか聞こえてきた曲、まだつぼみの桜の下で先輩が吹いていた曲。
 先輩、一年前のあの春の日、私はあなたとトランペットに恋をしました。
 あなたはとても厳しくて、でもだから楽譜も読めなかった私は、自分の音を手に入れることができた。合奏で初めて間違えずに吹き切れた時、あなたは私をちらっと見て「ふうん」というように小さく笑った。
 しめっぽいのが苦手なあなたはそんな素振りを見せないけれど、きっとあなたこそがみんなを次のステージへつれて行きたかった。私もこれを最後にしたくなくて唇が痛くなるまで練習した。それでも結局、最後になってしまったけれど。
 でもあなたと一緒にトランペットを吹いたあの時間は、あなたの金色の音につつまれて、きっといつまでも私の胸に輝く。
「俺の第一志望の大学、吹奏楽部が強くてさ。東北大会は常連だし、全国にも何度か行ってる」
 パチパチと通りすがりの高校生たちの拍手を受けながら、先輩は唾抜きをするついでのように、なにげない口調で言った。
「だからまあ、お前たちががんばって来年東北大会に行けたら、会うこともあるんじゃないですか」
 泣きすぎた私はトロフィーを抱いたままぼんやりしてしまって、その意味を理解して立ち上がった頃には、先輩はトランペットをケースにしまい終わっていた。
「行きます。来年、絶対に、東北大会に行きます!」
「かなり難しいと思うけどな。代表枠は少ないし、M高とか最近ただごとじゃなくうまくなってきてるし」
「先輩、知らないんですか。私の熱意と根性もただごとじゃないんですよ」
 知ってる。先輩は黒革のトランペットケースを持ってさっさと歩き出し、私はトロフィーを抱きしめてまっすぐな背中を追いかける。見上げた夏の夕空は、先輩の音が染めたみたいに、美しい金色に輝いていた。
 あなたはいってしまうけれど、音楽が私たちをつないでくれるなら。
 明日も早起きして朝練に行こう。あなたの金色の音を思い出しながら、私は私の音をみがこう。来年、まばゆいライトに照らされたステージで、またあなたに会えるように。客席で私たちの演奏を聴いたあなたが「ふうん」と小さく笑ってくれるように。
「でも先輩、この前の模試で第一志望がC判定だったって言ってませんでしたか? 先輩が大学落っこちたら、私たちが東北大会に行っても会えないのでは」
「バカが、青春をぜんぶ部活に捧げてきたからC判定なんだよ。これからは勉強に捧げてあっという間にA判定とってやるよ」
 そのときホールの玄関からオサダ先生がひょいっと顔を出して、
「おーい、そこの現部長と新部長。バスが来たよー」
 と私たちに手を振った。